自分のことばかりだ
感謝を伝えるタイミングを、自分の目一杯さで逃してしまった。
伝えるべきとも言えるタイミングだったし、相手だった。
とても後悔している。
この相手ではないなら、ここまで感じなかっただろうし、この相手だからこそとても辛いし、気づけた。
相手のことを見なければ、とするのは安直で、真剣に自分に取り組まなければなと思った。
人は、余裕があれば、悪い感情に苛まれることはないと思う。
余裕が無いなか無理をすると悪化するばかりで、これまでがそうだった。
根本的に解決する。
今回は、明らかにとってつけたような、フォローの連絡を、敢えてしないことにした。
伝えるタイミングをズラそう、もう意味を成さないとしても。
この経験を後悔のままにすることが、自分にとっては必要なことのように感じている。
対象が逆
ふと
他人といるときは自分
一人でいるときは他人
のことを、考えている自分に気づいた。
逆なのでは?
他人を幸せにするには、まず自分が溢れるほど満たされるのが先で、溢れた分を他人に与えるのが、健全な循環だと考えている。
与えることで満たされるサイクルも耳にするので、それに気づいたり、そうではなくやはり後者と思うときも来るかもしれない。
冒頭の気づきは、同時進行できるかもしれない。
それらはさて置き、逆だ。
気づけて良かった。
特に、一人でいるとき、自分に使える時間のときを、もっと自分に使わなければ。
今日は湯浴みの所作を、ひとつひとつ丁寧に行った。
髪が収まり良く整って、これまで他人のことを考えながら、どれだけ乱暴に扱っていたのかと感じた。
苛烈な感情の渦中に
更新をしていなかったが、時折この自分のブログを読んでいた。
過去の自分が今の自分にヒントをくれる。
進化をしていないわけではないけれど、詰まるところはやはり同じポイントなんだと思う。
今日、久々に痛烈な感情を感じていて、気が触れてしまっていた。
どうにも手がつけられず、ああ、自分は何も変わっていないどころか、退化しているのではないかと感じてしまっていた。
それでも支えになったのは、夜明け前が一番暗いということだった。
ここ半年ほどで、ライフワークによる人生最大の喜びを享受していた。
先月から過活動のようになってしまい、ハイのコントロールが効かず、心のどこかで、こういった振り子の振り戻しが強くくる時期があるだろうこともわかっていた。
内実、穿孔まで達すると全く手をつけられず、なんとか、なんとか自分を支えて今日を終えた。
それでも久々だった。
こういう時、自分の1番のポイントが出てくる。
私は近頃、被害者意識が強すぎる。
近頃なのか?でも前からではなかった。
そして、何かに腹立たしく思っていたとしても、その何かは関係がないことにも気づけていた。
心ひとつ。
たったひとつ。それが何より難しく、それが他の何でもない全てだということ。
そして何かへの厳しい感情は、何より自分を甚く傷つけて、消耗させているということ。
それらを考えながら、全く抜けられないながらも、こういった渦中であれど兆しすら見えなかった頃とは、違うことを感じていた。
また暫くブログをつけてみよう。
長期間、困難が立て続けにくると
それに対してどうこう考える間がなくなるから
気合いとか成長とかともかく
とにかくどんどんやるに成らざるを得ない。
ことが、わかりました笑
あーだーこーだ考えられてる時って
まだ暇だったんだなというのは、あるよね…
もうとにかくそれどころじゃない
嫉妬をしている時
人が嫉妬をしている様子を見て、きづいたんだけど、嫉妬してる時って、自分と比べているようで、自分のこと全然見ていない見えていない気がする。
恋愛の場合、自分のパートナーすら見ていない気がする。
嫉妬の対象だけをじっと見て、自分の傷を反応させている、それをただただしている、目が離せない、そんな様子に見えた。
嫉妬の対象に恋でもしているのかなというほど。不思議だな。嫉妬って不思議。
根っこが手強い
本当、人のことばかり考えて、気がそぞろなのも治らず、病気を疑うけれど曖昧な具合で、真剣に、真剣に取り組まなければ。
自分のことに。
愛した人を大切にできないのは、自分を大切にしたことがないから。
したらしたで、暇で仕方ない。
罰することをしないと、居ても立っても居られないのだ。
自分と他人は、本当、関係ないなあ。
自分が見たいように、世界を見ている。
私はどういう世界に生きたいのか。
気力も気もそぞろ。
幸せにならない復讐
仕事中ふと、幸せになるのは簡単だと思った。
幸せにならないようにしているだけだった。
幸せになりたいと目指しているのが、当たり前になっていた。
目指すことが目的だと、幸せになると不満を見つけ、また目指す状態にしてしまう。
そして簡単になれるのにならない、一番の理由は、怒りだと思った。
私はこれまで、優しさから我慢を多くしてきた。
それはそれは多くしてきた。
させられてきたわけではないことは、わかっている。
私が選択してそうしたのだけど、悔しさを昇華できていなかった。
親が宗教熱心だった。
どんなに私が努力しての成功も、宗教で祈ったからという理由にされた。
成果を奪われ続けているような気持ちの幼少期だった。
私は絶対に信仰しなかった。
その宗教をすれば、すぐに幸せになれるのに、なぜ遠回りするのかと言われ続けた。
その宗教以外の手段で、幸せになることが私の人生の目的の一つだった。
そうはいっても全ての成果が奪われ続けて、数十年が経ち、親に理解をしてもらうことを私は諦めず、執拗に、本当に執拗にぶつかり続けた。
親も年をとったり、私も外で吸収し成長し、いまは和解できていると言えると思う。
これまでは、宗教以外の方法での幸せを目指していたけれど、暗に幸せにならないことでの復讐もしていたように思う。
お前の育て方が間違ったから、こんなに不幸なんだという証明でも、したかったように思う。
宗教内で偉い知らない人にも、罵倒されたりもした。
そういった憎しみもあった。
でもふと気付いたのは、私が幸せになることこそ、見返せることだと思った。
見返すとか勝つとか、もっと深く考えると競争をしている時点で違うけれど、そもそもこの競争の始まりは勘違いだったのだから、どうあれ相殺できればいいと思う。
親も家族の幸せのために、宗教をしていた。
賢い人ではないし、一途すぎる性格が、幼少期の実子を傷つけたけれど、表現が違っただけだ。
まだ怒りはある。
けれどこの怒りは、悪化のためではなく、毒抜きのためであり、抜け切ったら本当に幸せに向かうことができる気がする。