幸せにならない復讐
仕事中ふと、幸せになるのは簡単だと思った。
幸せにならないようにしているだけだった。
幸せになりたいと目指しているのが、当たり前になっていた。
目指すことが目的だと、幸せになると不満を見つけ、また目指す状態にしてしまう。
そして簡単になれるのにならない、一番の理由は、怒りだと思った。
私はこれまで、優しさから我慢を多くしてきた。
それはそれは多くしてきた。
させられてきたわけではないことは、わかっている。
私が選択してそうしたのだけど、悔しさを昇華できていなかった。
親が宗教熱心だった。
どんなに私が努力しての成功も、宗教で祈ったからという理由にされた。
成果を奪われ続けているような気持ちの幼少期だった。
私は絶対に信仰しなかった。
その宗教をすれば、すぐに幸せになれるのに、なぜ遠回りするのかと言われ続けた。
その宗教以外の手段で、幸せになることが私の人生の目的の一つだった。
そうはいっても全ての成果が奪われ続けて、数十年が経ち、親に理解をしてもらうことを私は諦めず、執拗に、本当に執拗にぶつかり続けた。
親も年をとったり、私も外で吸収し成長し、いまは和解できていると言えると思う。
これまでは、宗教以外の方法での幸せを目指していたけれど、暗に幸せにならないことでの復讐もしていたように思う。
お前の育て方が間違ったから、こんなに不幸なんだという証明でも、したかったように思う。
宗教内で偉い知らない人にも、罵倒されたりもした。
そういった憎しみもあった。
でもふと気付いたのは、私が幸せになることこそ、見返せることだと思った。
見返すとか勝つとか、もっと深く考えると競争をしている時点で違うけれど、そもそもこの競争の始まりは勘違いだったのだから、どうあれ相殺できればいいと思う。
親も家族の幸せのために、宗教をしていた。
賢い人ではないし、一途すぎる性格が、幼少期の実子を傷つけたけれど、表現が違っただけだ。
まだ怒りはある。
けれどこの怒りは、悪化のためではなく、毒抜きのためであり、抜け切ったら本当に幸せに向かうことができる気がする。