自由すぎるという不自由

 

私は自由だ。

いま全てが自由である。


能力もコミュニケーションも、要領が良いため、ある程度はなんだってできる。
今は疲れが強いけれど、本来、好奇心・探究心・集中力・行動力がある。

 

そして大変不自由である。
あまりに何でもよくて、自由すぎるため、一歩も動けないのだ。

 

昨夜気づいたことがある。


私は制限を作ることを、制限している。

 

幼少期から思春期まで没頭していた活動を、真っ当に生きるために辞めた。

自分の本質でもあり再開もしたので、結果的には辞めたのではなく、長いこと制限したという形になった。

 

制限は、それを本質に充てていた私にとって、もっとも苦痛なものだった。

日常の些細なものも、本質を制限した感覚がよぎるため、強い抵抗を感じた。

 

そしていま、自由すぎる不自由を感じている。

 

放射状に拡がり過ぎている自分の様々面を、まとめて道にしたいと考えた時、ある種の制限が発生すると思った。

 

そして生き方について深く模索している私は、決めるということを選択してこなかったことに気づいた。

 

そうか、わからないのではない。

決めることで、発生するのだと。