理屈ではない解決
たちまちに大きな変化が連なり発生し、ひとつひとつが大切な内容なのに、書く暇がなかった。
見返すと丸2日しか経っていない。
まず、パートナーの件について。
前回の投稿の就寝時に、これまでにない苦しさがあった。暴れて声が出そうなほどで、心身が持て余すほど苦しかった。
母とパートナーが今のキーマンのようで、2人に放って置かれることは、気が触れそうなほど、いや気は触れていた。
その苦しみの手前、それこそ床に着く直前に、発想の転換をしていた。
"この状態を、実は楽しんでいるのではないか?"
苦しくて仕方がないのに、わざわざそうなる様、のめり込んでいるのではないか?自ら望んで苦しんでいるのではないか?
それは罪悪感から自分を罰したいのだろう。
そして床に着き、苦しみと痛みのピークが迎えたとき、ふと「母とパートナーは、私がこんなに苦しむことを望んでいない」という気づきが降りてきた。
私はいつのまにか2人を信頼し、愛を受け取っていたのだ。誤解を解いていたとも言える。
だからこそおかしいと気づいた。
これまで、この苦しみには確固とした理屈があった。
ネグレクトを受け、見捨てられる恐れからそれを実現する様な選択を重ね、傷が深まった。
なのでその傷を癒さなければ、平穏は訪れない。少しずつ癒していこう。
これが辻褄と納得のいく理屈だった。
けれど2人が望んでいないのに、私はなぜこんなにも苦しんでいるのか?と思うと、チグハグとした気持ちになった。
他の人たちも望んでいない。
私だけが苦しんでいる。
"この苦しみは間違っているのではないか?"
間違ってなどおらず、理由も理屈もある。
ただ結果は、誰も望んでいない。
少し滑稽な気持ちになった。
メガネを持って、メガネを探している様な。
周りの人は持っていると言っている様な。
そして、ああ、苦しまなくていいんだと思うと、途端に穏やかになり、全ての力が抜けて寝入った。
私は理屈が大好きで、納得するためにこだわってきた。なので自分でもしっくりこない解決だった。
この体験は大変大きい。
環境に左右されないとでも言えばいいのか、もはや環境でもなかった。
観念に左右されないと言うのが、1番近いかもしれない。
人生で初めての感覚だ。
導入として、傷を癒すことは大切。
その流れで癒えていくパターンもあると思う。
けれど決定打には、環境も経験も関係無いのかもしれない。