自分らしさとは

異動希望書と意見書を白紙で戻そうとした時、自分らしさのかけらも無さに、頭を抱えるような気持ちになった。

 

「自分らしくない」

 

但しその自分らしさとしているものも、歪んだ価値観や恐れからくる行動をそれとしているなら、望んでいる生き方ではない。

 

だからこそ年始に「丁寧」という目標を掲げた。

 

好転反応のような、違和感なのだろうか。

なかなかどうして、動揺するほどの違和感だった。

慣れる必要がある。

 

それにしても、こうした意思表示をする際に、自分はこうだという指針を持っておきたい。

 

まず私は大前提として「幸せ」になりたい。

 

様々な心理学や哲学、宗教学などを追求する中で、自分の幸せはひとつの真理なのだと理解した。

 

但しそれだけでは概念すぎて、生活に落とし込むにはもう少し指針がいる。

 

人の役に立つということも、大切なことだと理解はしている。

ただ自分を犠牲にしてきた私にとって、それをするにはまだ傷が癒えていない。

やりすぎたのだ。

 

傷を癒す必要があるなら、今年の指針には「平穏」があってもいい。

そう、あくまで今年の指針であって、ステージが上がるたびに見直せばいい。

 

まだ自分らしさのタイミングではないのかもしれない。

 

独りよがりにはなりたくないけれど、自分が成っていなければ犠牲になってしまう。難しい按配だと思う。

 

ひとまずは自分が、精神的にも物理的にも、忙しくならない選択をしていこうと思う。

 

私は土台の前に、荒地の草を抜いて行く必要がある。

そして耕せるところまでいけたら上出来。

 

今年はゆっくりしよう。

自分らしくなさに動揺するけれど、もしかしたら人の目も考えたのかもしれない。

自分だけのことならば、そういう年があってもいいと思う。

 

一度くらい、いいんじゃないかな。