自分を大切にしないことは、自分以外への不利益も生む。

 

かつてプライベートで、パートナーに深く愛された時、私はパートナーを、どう大切にしていいか、全くわからなかった。

私が、自分を大切にすることを、してこなかったからだ。

自分をぞんざいに扱うことは、自分にしか不利益がないと思っていた。

まさかこんな形で、大切にしたい人へ、不利益(厳密に意味の合う表現ではないのだろうけれど)が出てしまうとは、思ってもみなかったし、大切にするということに対して、真っ白で想像もできない自分に、ある種の絶望感があった。


その頃、本当に自分を大切にしなければと、強く思ったことがある。

完全にハードワークで、バーンアウトしていた頃だったので、それを機に改めることにトライしてきたのだけれど、振り返れば自分の無価値観を埋めるためや、完全主義からくるハードワークを手放すことは、渾身精を出し、全てを注ぎ込んで、ある種の真価に至っていた価値観を、ビリビリと破らなければいけないということで、大変、大変強く厳しい葛藤があった。

けれど、大部分は、乗り越えた。

 

自分を大切にすることは、色々な手法や、捉え方や、表現があるけれど、私にとっては「自分を守る」ことだった。

 

自分に無理をさせないために、自分の価値観をも折る、といったことだった。

 

これまでの経緯の根底には、人に迷惑をかけたくないという強い考えがあり、それは当時ハードワークだった母親に対する、子供の頃の自分の思いが発端だと思う。

 

迷惑をかけないことで、愛されるのではというロジックと共に、迷惑をかけないことは、私の愛情表現なのだ。

 

ハードワークをやめることは、人に仕事を渡すことであり、それを迷惑と考える私は、仕事を渡すことが大変辛かった。

 

そこには完全主義の考えもあり、完璧な仕事をしたい、但し人に任せるとそのクオリティは保てない、だから完全管理をするというものでもあった。

 

二重の葛藤をようやく超え、仕事に関しては、私でいうところの、迷惑をかけるけれど、ということが、できるようになってきた。

 

しかし仕事は、ある種割り切った考えができるものだから、プライベートではまだまだ活かせていないと思う。

 

それでも仕事もプライベートも、同じ私がしていることなのだから、少しずつでも良い影響が出ると信じて、今後も自分を大切にすることを、少しずつ強めていきたい。